『リアル』Vol.14 特設サイト

障害者スポーツの真実

COUNTDOWN RIO 2016 PARALYMPIC GAMES

鳥海連志 十七歳の地図

長崎県の小さな島に住むひとりの少年。12歳で始めた車イスバスケが、その少年の運命を大きく変えた。車イスバスケ日本代表・鳥海連志、リオパラリンピックで世界に挑む17歳の夏――。

撮影/細野晋司
構成・文/市川光治(光スタジオ)
取材・文/名古桂士(X-1)

■0歳~12歳……連志を育んだ「菜の花こども園」

 1999年2月、鳥海連志は、すねに2本ある骨のうちケイ骨が両足ともに欠損、右手に4本、左手に2本の指が残された両手指欠損で生まれた。両足に補装具を付けて歩く方法もあったが、もっと自由に動けるようにと、両親は3歳で両下肢の切断を決めた。

 連志は0歳から「菜の花こども園」に通った。連志は体を使った遊びが大好きで、切断した足で自然の中を駆け回り、障害のない友だちと一緒に泥んこになって遊んだ。
 左手の指が2本ではみんなと同じようにのぼり棒が登れなかった。しかし連志は左腕で棒を抱えて登る方法を自分で考え出した。逆上がりもひとりで練習して、いつの間にかできるようになっていた。運動会ではみんなが雲梯(うんてい)をしているその下を逆立ちで歩いて大喝采を浴びた。これも連志自身が言い出したことだった。
 先生たちは連志に考えるきっかけと時間を与え、そのチャレンジをあたたかく見守った。
「菜の花には学童保育も含めて12歳までお世話になりました。楽しくて大好きでした。僕、5歳のときに腹筋が割れてたんです。どれだけ体を使って遊んでたのか(笑)。誰かにできるなら、僕にも絶対にできると思ってました。菜の花に行ってなかったら、いまの僕はなかったと思います」

■12歳……車イスバスケと出会う

同級生はほとんどが幼なじみ。「日本代表でも、連志は連志」

 車イスバスケとの出会いは中学1年生、12歳のとき。ソフトテニス部で義足を付けてプレーする連志を見て、バスケ部のコーチが声をかけてくれたのだ。
「そのコーチは車イスバスケのレフリーもやっていた方だったんです。でも最初は断りました。体育はずっと義足でやっていたから、車イスでスポーツをするという選択肢を考えたことがなかったんです」
 “車イスのスポーツなんて、障害者のリハビリだろう”そんな気持ちで地元チーム・佐世保WBCの練習に参加した。しかし、必死に車イスを漕いでも誰にも追いつけないし、シュートはゴールにさえ届かない。
「めちゃめちゃ悔しかった……。まずはこの佐世保のチームで一番になる、そしていつか日本代表に入る、そう決めました。バスケ車に初めて乗った感想は……楽しかった、かな。想像以上に速くて転んだりもしたけど、怖いとは思わなかったです」
 実は鳥海ファミリーはバスケ一家。フォワードだった父・隆一、バスケ部マネージャーだった母・由理江、1歳上の兄・大樹(たいじゅ)はミニバスから始めて現在は大学でプレーするシューターだ。大樹の試合の応援に行ったとき、そのプレーを連志がうらやましそうに見ていたことに気づいていた家族は、車イスバスケへのチャレンジを全力で応援した。
 
 車イスバスケでは選手の障害の種類や程度に応じて、最も障害が重度な1.0から障害の軽度な4.5まで、0.5点刻みで持ち点(クラス)が設定される。両下肢切断は持ち点が高いハイポインターとなるが(先天性で太ももの上部から両下肢が欠損している日本代表の香西宏昭は3.5)、両手にも障害のある連志の持ち点はそこからさらに下がって2.0である。
 持ち点2.0の選手のほとんどは脊髄損傷などの下肢障害。体幹バランスが不安定なため車イスのシートに角度をつけて膝を少し高くし、背もたれを利用しながらプレーしている。シュートやリバウンドなどで、手を高く挙げるとバランスを崩すこともある。
 一方、連志は腹筋も背筋も利くため体幹バランスにはまったく問題がない。シートをフラットにした車イスに乗り、ハイポインターが車イスの片輪浮かせて高さを出すティルティングというテクニックまで使うことができる。もちろん両手の障害は不利だが、右手の4本の指でボールはしっかりハンドリングできるし、左手も車いすを漕ぐ動作には大きな影響はない。連志の障害は車イスバスケでこそ活きる、と言えるものだった。

学校は義足で。校内の移動は同級生がサポート

■15歳……初めての日本代表

 13歳になった春に公式戦デビュー。翌年には、長崎県チームのメンバーとして全国障害者スポーツ大会(障害者の国体)で3位躍進の原動力となり、アジアユースパラ競技大会日本代表(U-23)にチーム最年少で選ばれ、初めて日の丸のユニフォームを着た。
 高校生になって間もない15歳の7月、長崎県チームは「第40回のじぎく杯」の決勝で、及川晋平HC率いるNO EXCUSEと対戦。敗れたものの、連志は個人賞を獲得し大きなインパクトを残した。
 その翌月、連志は鹿児島で開催された日本代表強化合宿に初めて招集される。
「晋平さんが『好きなようにやっていいぞ』と声をかけてくれたので、全力で行きました。でも、レベルが違った。まったく歯が立たないどころか、子ども扱いでした」
 強化合宿から帰ってきた連志は、家族に日本代表メンバーがどれだけ高いスキルを持っているか、その中でプレーすることがどれだけ楽しかったかを、目を輝かせながら話したそうだ。


 連志はこれまで以上に車イスバスケに没頭するようになった。学校が終わると自宅から近い体育館に直行し、個人スキルを磨く。教科書となるのは、自分の目で見て盗んできた日本代表選手たちのプレー。頭の中でそれを再生しながら、『こうしたらできるかな?』、『自分ならこういうやり方もあるかな?』と試行錯誤を繰り返して自分のものにしていった。
「自分にできないプレーがあると悔しいんです。オールラウンダーになりたいので、クラスが上のヒロさん(香西)、レオさん(藤本)のプレーもやってみます。できないプレー? 左の指が2本だから左からのレイアップシュートがダメ(笑)。でもバンクショットで決められるから大丈夫。自分にはできないなんて、考えたことがないですね」
 誰に教わることもなく、自分で考えてチャレンジを繰り返す姿は、菜の花こども園でのぼり棒や逆上がりの練習に夢中になった子どもの頃と変わらない。

AOZ大会でアグレッシブな一面を爆発させた連志

■17歳……島の少年、世界へ――

連志の挑戦を見守ってきた父・隆一、母・由理江とともに自宅の前の港にて

 日本代表の仲間たちを「まるで乾いたスポンジ」、「会うたびに技が増えている」と驚かせる急成長を見せた連志。合宿初招集から1年、昨年10月のリオ出場権をかけたAOZ大会では、シンペーJAPANにとって欠くことのできない戦力となっていた。
「強いチームと試合ができて、毎日が楽しかったです。負けたけどオーストラリア戦がとくに楽しかった。ほかの相手とレベルの違う強さだったから。試合に出たくてたまんなくて、ベンチでずっと晋平さんに、『出して~』って念を送ってました」

 ライバル韓国との直接対決を制し、リオ出場を決めたシンペーJAPAN。今年5月22日に発表されたリオのメンバーには、当然のように「鳥海連志」の名前があった。開会式時点で17歳7か月は、車イスバスケだけでなく、日本代表選手団でも最年少となる。
「シンペーJAPANはすごくいいチームなので、このチームで結果が出せるよう、全力を尽くしたいと思います。個人的には……パラリンピックで毎日強いチームと試合ができると考えたら、ワクワクが止まんないです(笑)。世界を驚かせるようなプレーをしたいし、2020年や未来につながる大会にしたい。
 世界のいろんな国の選手を集めてベストチームを作ったときに、真っ先に名前が挙がるような選手になることが目標です。対戦相手が日本の鳥海連志を研究して徹底的にマークしてきても、止められないような選手になってやろうと思います」


 車イスバスケを始めるまで、12歳の少年の地図には小さな島しか描かれていなかった。それからわずか5年でその地図には日本が描かれ、世界までが描き加えられていった。
 地球の裏側で開催されるリオパラリンピック。世界一を決める最高の舞台で、どこまでも広がる17歳の地図には、何が描かれるのだろうか――。

【連志とは何か?】

証言1 鳥海由理江(母)

連は逆子で最後まで戻らなかったんです。結局、帝王切開で産まれて、障害があるってなって、すぐに大学病院に連れて行かれました。私が目を覚ました時、主人が目の前にいて「指がない、足がない」とか言ってましたが、その時は意味分かんなかったです。正直どう育てていいか悩んだこともありました。転機となったのは0歳からお世話になった菜の花こども園。12年間通いました。障害のありなしに関係なく、できなかったら、どげんかしてできるように一緒に考えてくれたり、見守ってくれました。お陰様で野生児のように育ってくれて感謝してます(笑)。菜の花で親として学んだのは、線引きを私がしないこと。「できないことはできないと連自身が判断して、自分の言葉で先生に伝えなさい」と言いました。主人もずっとバスケをやってましたし、私も高校時代はバスケ部のマネージャー。長男も小学校からバスケをやってます。鳥海家はバスケ一家なんですよ。連も車イスバスケと出会って本当によかったと思います。今は合宿や遠征での移動も1人でやってますし、いつの間にか成長したなぁと思いますね。普段はイライラするくらいマイペースなんですけどね(笑)。そういえば連志という名前は、志を高く持ち続けて欲しい…そんな願いを込めて主人とで付けました。名前の通り、志を高く、これからもチャレンジして欲しいですね。

証言2 副島慎也(菜の花こども園教諭)

連志は、赤ちゃんの時から小6まで、ウチ…菜の花こども園に通ってました。菜の花こども園は今までもいろんな障害を持っている子がいました。連志の代は、連志しかいなかったですね。連志自身も助けてとか、できないと弱音を吐いたことはなかったし、周りの子も「連志だから、助けんば」みたいな空気もなくて、何でも他の子と一緒のことをやってました。お母さんも、それはさせないで下さいとかなくて、本人がやりたいことをやらせて下さいって言う家庭だったので、菜の花こども園のやり方と合ってたと思います。思い出すのは常に這って回って遊んでた姿ですね。雲梯(うんてい)とかは流石にできませんでしたが、手で掴めなかったらヒジを使ったり当時から自分で考えて工夫していましたね。連志が車イスバスケを始めたって聞いた時は、バスケと出会って良かったなって嬉しくなりました。でも、そこからの成長のスピードはビックリしました。日本代表に選ばれたり、堂々としゃべったり…。あの頃の連志を知ってるボクからしたら信じられない気持ちです。今や連志は、菜の花こども園の子どもたちの憧れの存在です。

証言3 村田清久(長崎県立大崎高校 担任教諭)

学校での連志は、いたって普通の生徒です。試合や合宿等で、他の生徒のように授業を受けられてませんが、出席日数の不足分は補講をやったり課題をやったりして補っています。ちゃんと授業出れてたら、もっと成績は上がるんでしょうが、しょうがないでしょう(笑)。授業ではないですが、連志は高校生ですが日本代表となって、我々がニュースでしか知り得ない、いろんなものを世界で見て感じて、肌で触れて視野を広げ、身につけていますね。英語の発音なんか、たいしたもんですよ。それを褒めたら、はにかんでましたね。その時の表情は、車イスバスケの試合とは全くの別人です。とても同一人物とは思えない。そういえば以前、連志に「試合で緊張しないのか?」って聞いたことがあったんですが、連志は「ワクワクします」と平然と答えたんですよ。腹が据わるというのは、こういうことかと感心したのを覚えてます。今度、みんなに気持ちの持ち方を伝えてもらわないといかんですね(笑)。

証言4 及川晋平(日本代表HC)

初めて見たのは、中3の頃。のじぎく杯で見たのかな。とにかくボールに対しての執着心が強いなという印象がありました。代表に呼んで、実際に近くで見て驚かされたのは、スポンジのような吸収力だということと、いい意味で物怖じしないメンタル。車イスバスケを学ぶ意識も高いのですが、今はあまり教え込んだりせず、自分自身で考えるように指導してます。ただ、「Basics」の部分は、連志とも「しっかりやろうな」と話して、そこは意識して取り組んでいます。将来性だけじゃなく連志は今や日本代表に欠かせない選手です。オーストラリアやヨーロッパ、世界中のバスケ強国がマークする選手になってきています。近い将来、日本を飛び越えて、世界を代表する選手になるでしょうね。

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