
『ゲキドウ』のスタートに連動し、本連載では今まさに演劇界で注目を集めているホットな劇団のインタビューをお届けします。第5弾は 第67回岸田國士戯曲賞最終候補作『薬をもらいにいく薬』や前作『友達じゃない』など、名前のつけられない感情や人間関係にそっと寄り添う演劇で人々の心を包む、いいへんじが登場。やさしくて、やさしいだけじゃない。そんな劇作の魅力に迫るべく、作・演出を手がける中島梓織さんにお話を聞きました。
撮影◎石川耕三 文・構成◎丘田ミイ子

「一人じゃないこと」に演劇の魅力と可能性を感じて
――中学までのバスケ部を経て、高校から演劇部へ入った中島さんですが、『ゲキドウ』にはどんな印象を持たれましたか?
強豪の野球部を辞めて演劇部に転部した主人公に親近感を覚えました。私もバスケ部時代はスタメン選抜に一喜一憂したり、自分を中途半端に思って悩んだ時期があって…。そんな葛藤を経て「高校生になったら別のことをやろう」と思って選んだ道が演劇だったんです。きっかけは受験生を対象とした新校舎のお披露目会。そこで演劇部の公演を観た時に入部を決め、受験をしました。物語を書くことにも興味があったので「このお芝居の全部を高校生だけで作っているんだ!」と興奮したのを覚えています。
――『ゲキドウ』の作中にある体育館での演劇部の上演シーンとも重なるエピソードです。演劇部ではどんな作品を作っていたのでしょう?
入部すぐの文化祭では俳優として出演しました。その後、大会出場に燃えていた顧問の先生に「台本を書いてみたい人はいる?」と投げかけられ、手を挙げました。それまでは既成の戯曲を使うことが多かったのですが、生徒創作をやってみようという話になって…。なので、『ゲキドウ』で作家の子が書けなくて辛そうにしていたり、かと思ったらゾーンに入って没頭する姿には当時の自分を少し重ねたりしました(笑)。
高校生って、書きたいことが溢れ出てくる時期でもあるんですよね。頭の中はまだ散らかっているんだけど、「真柴の考えていることが知りたい」、「もっとうまく書きたい」といった初期衝動のようなものがほとばしっている。そんな描写に自分がスタートに立った頃を思い出しました。
――ちなみに、中島さんが最初に書いた台本はどんなお話だったんでしょう?
当時みんなでよく寄り道をしていた、学校近くのお好み焼き屋さんを舞台にした会話劇でした。タイトルは『お好みぃにけ~しょん』。主人公は八方美人がゆえに「どれが本当の自分かわからない」と悩んでいて、その子を軸に展開する人間関係の軋みのようなものを描きました。“高校生らしさ”を意識して書いたわけではなかったのですが、日々の身近なコミュニケーションに深く潜れるような作品を書きたいと思っていたんです。
改めて振り返ると、バスケ部時代のフラストレーションが原料になった部分もあったのかなと思いますね。スタメンの子とそうでない子の間を取り持ったり、双方が嫌な思いをしないように立ち回っていた自分の姿がどこかに投影されていたのかもしれません。中学の頃はそういうモヤモヤを吐き出す方法が分からなかったのですが、漠然ながら何か形にしたい衝動はあって…。そんなタイミングで演劇と出会えたことが一つの転機になりました。
――中島さんご自身の初期騒動とともに、人が集うことによって起きる様々な心の動きやその導線を繊細に掬い上げるいいへんじの演劇の源流に触れたような感覚にもなりました。
台本の書き方やそれを舞台上でどう表現するかについては毎回紆余曲折があるのですが、演劇を通じて描きたいこと自体は基本的には変わってないのかもしれません。「他者と生きること」は難しいけれど、諦めたくない。そんなことを10年以上考え続けている気がします。それは演劇を選んでいる理由にも通じていて、一人じゃないからこそ創作を続けられているんですよね。
例えば、中学の頃のモヤモヤを形にしたいと思った時に小説を選んでいたら、もっと辛くなっていたかもしれない。もちろん、台本を書く時は一人で机に向かうのですが、全てを自分一人で考えるわけではなく、俳優やスタッフと話す機会があったり、考えを共有する時間がある。トップダウンではなく、みんなで「どうしたらもっとよくなるんだろう?」と手探りをしながら作ること。その過程に演劇の可能性や魅力を感じているのだと思います。

フィクションを通じて、他者の呪いや祈りを想像すること
――立場や環境の異なる登場人物の独白や対話。いいへんじの演劇では、他者がどう生きているのか、そして、共にどう生きていくのかということを考えさせられることが多いのですが、作品を作る上で中島さんが大切にしていることはどんなことでしょうか?
「いいへんじにはいい人しか出てこない」みたいな感想を言われることも時々あるのですが、その度に私もまた「果たして、いい人とはなんだろう?」ということを考えさせられるんですよね。というのも、善悪ってとても複雑で、人にはそれぞれの呪いや祈りがあると思うんです。そうしたものが、集団の中で「悪」になるようなことがあったとしても、それはもはやその人個人だけの問題ではないという気がしていて…。
例えば、「女性は家に入って育児や家事を担うべき」という考えが強かった時代に生きていた人にとっては、そうではない生き方を選ぶ他者のことが想像しきれず、傷つけてしまうことがある。でも、それはその人が社会によって家の中に閉じ込められてしまっていた影響もあると思うんです。
――外部での作・演出作品ですが、先月上演された宝宝『みどりの栞、挟んでおく』も、まさにそこに手を伸ばした作品でした。
そうですね。身近なところで言うと、「自分の母もそうした社会の風習や時代の構造の影響を受けた世代だろうな」と思いながら作った作品でした。だからと言って、誰かを傷つけていい、というわけでは決してないのですが、せめて作者である自分はそこに向き合いたいと思っているんですよね。それは、「フィクションだからこそできること」でもある。
現実で同じ状況になったら、自分の心を守るためにその場から逃げたり、考えの異なる他者と関わらずに生きていこうとするかもしれないけれど、物語の中では「信じたさ」に向かうことができる。どうやったら、異なる他者と一緒にいられるかを見つめられる。そんな風に「物語の中だったらできること」や「物語の力を借りて言えること」を糸口に社会や他者を描くことが多い気がします。完全に同調ができなくても、その人なりの呪いや祈りを一旦想像して、自分の中で整理をするというか…。「その重なりが少しずつ、じわじわとでも現実に波及していけばいいな」という願いを込めて書いています。
――これまでの作品群、そして、来たる新作『われわれなりのロマンティック』に込められた思いにも少し触れられたような気がします。
女性像に限らず、他者の切実が見えにくい世の中だからこそ、どの作品を作っている時にも「見えにくいけどちゃんとあるよ、ここにいるよ」みたいな感情にすごくなるんですよね。観客の方の中にも「“存在する”っていうことが物語として描かれていることが救いだった」と言って下さる方がいるので、これからもそこを信じて演劇をやっていこうと思っています。
演劇を観た後に「私はこう思った」とか「こんなことに気づいたんだけど」と、自分のことを考えたり、それについてみんなで話してもらえること。私にとってはそれが一番の目標であり、演劇がそうしたきっかけになれると信じて、一つひとつの作品を作っています。

「対話」によって演劇が生まれる喜び
――執筆から上演まで創作の過程は多岐に渡りますが、中島さんが演劇活動の中で喜びを感じるのはどんな瞬間ですか?
一番好きなのはやっぱり稽古ですね。稽古場でみんなと対話できることが、常に創作のモチベーションになっています。作品のことに限らず、日常で感じる違和感や疑問も共有するのですが、その都度様々な視点や気づきをもらえるんですよね。昨日も新作の初稽古だったのですが、「みんなと読みたい」と思っていた参考文献を一人ずつ回して読んでから、それぞれの感想や考えをシェアしてもらいました。
そんな風に題材に向き合う時間や相互理解の過程は必ず作品に還元される。そう信じています。稽古が始まるまでは「この先どうなるんだろう?」と不安を感じるのですが、孤独の中で書いた台本が対話のテーブルに乗った時、一人では辿り着けないところに毎回連れていってもらえるんですよね。セリフの響き方や登場人物の造形などをみんなで見つけていくこともすごく楽しくて…。その積み重ねによって作品を形にできることが演劇の魅力だと思っています。
――劇団という形で演劇活動を続ける強みはどんなところでしょう?
メンバーの小澤南穂子と飯尾朋花の存在はやはり大きいですね。二人ともいいへんじとは別に「山口綾子の居る砦」という団体で劇作・演出を行なっているので、そうした視点に支えられることも多いです。過去作では執筆の段階から三人で話し合うこともあったのですが、新作では「まずは自分が書きたいことを書き切りたい」という思いがあったので一人で執筆に向き合いました。
その間二人は見守りつつ待ってくれていたのですが、キャストとしても重要な役どころを担ってもらうので、今後の稽古では話し合いながら作っていきたいと思っています。私が作品の題材にしていることって、人によっては「そんなに立ち止まって悩まなくてもいいんじゃないか」ということだったりするんですけど、二人はまずそこに共感してくれる。そんなメンバーがそばにいてくれていることが自分にとって救いにもなっています。
――待望の新作『われわれなりのロマンティック』、間もなく開幕です。最後にその意気込みをお聞かせ下さい。
『われわれなりのロマンティック』は大学のフェミニズムサークルで出会った二人を中心に多様なジェンダーや、自分たちなりのパートナーシップを築こうとしている人々を描いた群像劇です。「恋愛感情と言いたくないけれど、かといって、ただの友達とされるのも何か違う」。そんな感覚を一つの糸口に社会における様々な抑圧や、性別や属性によって「こうあるべき」とされてしまっている固定概念を解しながら、対話の大切さや難しさを伝えられたらと思っています。
フェミニズムやセクシュアルマイノリティが題材の作品ですが、自分が当事者ではなかったとしても「私には関係ない話だ」と目を逸らすのではなく、「この世界には多くの人が様々な感情を抱えながら生きている」ということを持ち帰ってもらえたら…。そのために、まずは私たちが胸を張って「こういう世界にしていきたいよね」って言えるように。そんな祈りを込めて作った作品です。

やさしくて、やさしいだけじゃない。いいへんじの演劇を語る時、まずそう記そうと心に決めていました。それは、誰かにとっての「やさしさ」が他の誰かにとってはそうでないことをきちんと伝える演劇であるから。そして、それを通じて「やさしさ」というものが「やさしい気持ち」だけでは描けないことを痛感するからでもあります。中島さんはインタビューの中で少し苦笑しながら「いい人しか出てこないって言われることもあって…」と言ったけれど私はそうは思いません。「いい人」という答えをいいへんじの演劇は定義しないから。それは「悪い人」についてもまた同じです。
たしかにいいへんじの演劇はやさしくて、あたたかい。でもそれは、そうではない、時にかなしくてつめたいこの世界へのささやかで確かな抵抗であると私は感じるのです。強い言葉や激しい風景で抵抗や反発をするよりも、人の弱々しい姿やそれを包み込む景色でそうした姿勢を示す方が本当はずっと難しい。いいへんじの演劇はいつもそこに果敢に向かっていく。弱さを闇雲に強さに変えることなく、善悪を一つの答えに収めることなく、「わたし」と「あなた」の「わたしたちなりの対話」を紡ぐことで。
「やさしい」や「あたたかい」という安心は「かなしい」や「つめたい」という不安といつもともにある。気持ちが追いつかず涙ばかりが流れる夜と、泣いたからといって清々しく迎えられるわけもない朝を私たちは繰り返しながら生きています。そういう相反する気持ちが同じ心に体にあるということ。それでいいということ。いいへんじの演劇は、中島さんの作品はいつもそのことを伝えてくれる。それは世界へのとりとめない手紙であり、同じだけ心をつかって綴られた"へんじ"でもあるようにも思います。
人と人との間にはいつだって大きな川が流れていて、こちらと向こうの違いに戸惑い、いつでも行き来ができる橋を気安くかけることもためらわれる。だからこそ、このやさしくて、やさしいだけじゃない演劇に出会ってほしい。私はいつもそんなことを思いながら劇場に向かいます。
丘田ミイ子プロフィール
『SPICE』、『ローチケ演劇宣言!』、『演劇最強論-ing』、演劇批評誌『紙背』などの演劇媒体を中心に、劇作家や俳優のインタビューや公演の劇評を多数執筆。CoRich舞台芸術まつり!や東京学生演劇祭の審査員も務める。
劇団プロフィール
早稲田大学出身の演劇団体。
2016年結成、2017年旗揚げ。構成員は、中島梓織、飯尾朋花、小澤南穂子。これまでの主な上演に、『つまり』(下北ウェーブ2018選出)、『薬をもらいにいく薬(序章)』(芸劇eyes番外編 vol.3『もしもし、こちら弱いい派 ─かそけき声を聴くために─』参加作品)、二本立て公演 『器』/『薬をもらいにいく薬』(2022年こまばアゴラ劇場主催プログラム)、『友達じゃない』(佐藤佐吉演劇祭2024参加作品)など。
答えを出すことよりも、わたしとあなたの間にある応えを大切に、ともに考える「機会」としての演劇作品の上演を目指しています。
新作情報
MITAKA "Next" Slection 26th 『われわれなりのロマンティック』
脚本・演出:中島梓織
- 日時
- 2025年8月29日(金)~9月7日(日)
- 場所
- 三鷹市芸術文化センター 星のホール
- 出演
- 小澤南穂子(いいへんじ) 小見朋生(譜面絵画) 川村瑞樹(果てとチーク) 藤家矢麻刀 百瀬葉 冨岡英香(もちもち/マチルダアパルトマン) 谷川清夏 奥山樹生 飯尾朋花(いいへんじ)