この頃はまだ義務教育の時代ではない。それどころか、大多数の者は学校など一度も行ったことがなく、人口の三分の二は自分の名前さえ書けないという時代である。しかし、サンソン家は教育に関しても貴族並みで、子供にはできるだけいい教育を受けさせるのが伝統だった。これは社会的体面のためだけではない。裁判所と表裏一体の関係にあり、医業を副業とするサンソン家としては、跡を継ぐ息子が法律の専門書や解剖学の本もちゃんと読めるような知的レベルに達していないと、後々、仕事にさしつかえるのである。
だが、シャルル–アンリが就学年齢に達したとき、両親はどこの学校にやるべきか、頭を悩ませなければならなかった。身元が知られているパリで学校に通わせることはできなかったので、シャルル–アンリはノルマンディー地方の大都市、ルーアンの学校へやられることになった。だが、その二年目に、生徒の親たちの非情な申し入れにより退校せざるを得なくなる。シャルル–アンリは、やむなくパリに帰った。シャルル–アンリは悲しかった。「嫌々ながら、仕方なしに勉強する子も多い。自分は勉強したくてたまらない。なのに、教えてくれる人がだれも見つからない」。
家族全員が諦めかけていたとき、意外なところで家庭教師が見つかった。近所の人が「病気で死にかけているお年寄りの神父さんがいる」と助けを求めてきたのである。グリゼルという名前のその神父は、父ジャン–バチストの必死の治療もあって、瀕死の病から回復した。当時、知識階級の最高峰であった神父の中でも、グリゼル神父は傑出して博学であった。また、シャルル–アンリは進歩著しい生徒であった。だが、シャルル–アンリが14歳の時、グリゼル師は死亡する。グリゼル師を失った悲しみからシャルル–アンリは半年は立ち直れなかった。
グリゼル師が亡くなった翌年、父親のジャン–バチストが脳卒中で倒れ、半身不随になった。シャルル–アンリが、父親に代わって死刑執行人の職務を果さなければならなかったのである。まだ心の準備も十分でないままに、シャルル–アンリは、公式には16歳にして処刑台に立つことになった。処刑は、愛人と共謀して夫を殺害したカトリーヌ・レコンバという女性の絞首刑が初仕事だった。ただでさえ冷静な気持ちで執行にあたることなどできるはずもなかったろうに、この女性は若くて、評判の美人だった。シャルル–アンリは何度も何度も失敗し、5、6回目で刑の執行に成功した。無様なデビューになるが、歴代当主のデビューもこうしたものであった。
- 革命前はパリ市城門外、現在の九区に構える広大な邸宅。敷地内には診察室や実験室を完備。十数人いる助手も住んだ。
- 軍人だった初代サンソンは処刑人の娘と恋に落ち、処刑人となった。パリでは初め中央市場近くの「処刑人の館」に住んだ。
- 代々医業を副業にしたサンソン家。多くの死体に触れ、臨床経験を積んだ医・薬術は、かなりの高水準だったと言われる。